★ 六月の花嫁殺し ★
クリエイター宮本ぽち(wysf1295)
管理番号364-7666 オファー日2009-05-20(水) 20:13
オファーPC 仲村 トオル(cdmc7442) ムービースター 男 25歳 詐欺師探偵
ゲストPC1 京秋(cuyy7330) ムービースター 男 38歳 探偵、影狩り
ゲストPC2 ヘーゼル・ハンフリー(cbsw5379) ムービースター 女 29歳 美しき殺人鬼
ゲストPC3 ダニエル・リッケンバッカー(cymd7173) ムービースター 男 29歳 花嫁殺し
<ノベル>

 しとりしとりと、六月の雨が降っている。
 全身にまとわりつくかのような。あるいは、四肢を絡め取ってしまうかのような。そんな陰鬱な降り方だ。
 刻(とき)は既に深更を告げた。頼りない街灯ばかりが不規則に明滅している。霧雨の合間を縫うように短く乱れた呼吸音が響く。
 「どうして逃げるんだ」
 男の囁きは静かな雨音に掻き消されてしまいそうであった。しかし密やかな微笑を含んだ彼の声は息を乱す女の耳にはっきりと届いていた。
 芸術品のように美しい微笑。蜂蜜のように甘い囁き。彼のすべてが魅力という名の魔力であるかのよう。蜘蛛の糸のように絡みつく視線と声から逃げたくて、女はよろめきながら駆け続ける。
 逃げられないと、頭の片隅では理解していたけれど。
 「そうか。鬼ごっこがお望みなんだね」
 美しい男はゆったりと歩を進める。女はまろぶように逃げ続ける。それでも男は決して足を速めない。いくら逃げても難なく捕まえられると確信しているかのように。
 「いくらでも付き合おう、君の望むままに。――僕は君を愛しているのだから」
 だからそれは宣告だった。決して逃がさぬという宣告であった。
 恍惚に満ちた、しかしどこかひんやりとしたその声に貫かれるかのように女はつんのめり、転倒した。
 白かったワンピースは雨と泥で汚れた。ハイヒールはとうに脱ぎ捨てた。化粧も髪型も雨で崩れた。
 「ああ……美しい」
 それでも彼はうっとりとひざまずき、彼女の顎をそっとすくい上げるのだ。涼しげな目許を陶酔に濡らしながら。
 「美しい。君は本当に美しいね」
 童話の王子のような甘い甘い口づけが落とされる。
 「だから――死んでおくれ。僕に愛されるために」
 次の瞬間、女の胸に大輪の薔薇が咲いた。血の色をした美しい花が。
 「ああ……ようやくだ。やっと手に入れた。僕の花嫁……」
 男は歓喜に声を震わせ、物言わぬ骸となった女に頬ずりした。
 しとりしとりと、ぬるい雨が降っている。


 『ああ……ようやくだ。やっと手に入れた。僕のフェリシア……』
 美しい男が熱っぽく囁きながら死体の手に口づける。そんなシーンで画面を停め、仲村トオルはぎしりと椅子を軋ませた。明け方の薄暗い部屋の中、DVDを再生するパソコンだけがぼんやりと光を放っている。
 「ふーん?」
 背もたれに寄りかかったままマウスをいじり、男の顔が大写しにされる場面を選んでもう一度停止させた。
 甘いマスクとはこのことだろう。柔らかなプラチナブロンド。長い睫毛で縁取られたアイスブルーの瞳。高い鼻、シャープなフェイスライン。
 (この顔で囁かれたら腰砕けー、って? ちょっと分かるかも)
 芸術品のように整った美男子だ。同性のトオルですらはっとしてしまうほどに。
 (んー。一応チェックはしておこうかな。“花嫁殺し”なんて、そのものズバリだし。にしても、事件が起こってる割にはニュースが少ないってゆーか)
 そこまで考えてふと苦笑を浮かべた。
 「ずいぶん探偵っぽいことしちゃってるねー、ボク」
 テレビをつけると早朝のニュースが流れていた。画面の上部に表示された天気予報のアイコンを横目で見やり、窓の外に目を投げる。詳しい予報を聞くまでもない。今日も六月らしい雨模様だ。
 「今日未明、銀幕市ミッドタウンの××で女性の刺殺死体が発見されました。女性は白いワンピースを着用し、細く鋭利な刃物で胸を刺され、死亡推定時刻は昨夜遅くと……」
 のっぺりと流れてくるアナウンサーの声にトオルは目をぱちぱちとさせた。


 翌日は薄い曇天だった。梅雨の晴れ間とはいかぬまでも、外出には問題のない空模様である。従って、ヘーゼル・ハンフリーが携えていたのは雨傘ではなく日傘であった。
 非日常が日常となった銀幕市でもへーゼルの容貌は人目を引く。上流階級の貴婦人とはまさに彼女のような女性を言うのだろう。パーティードレスかと見まごうような仕立ての白いワンピース。ほっそりとした繊手を包むのもワンピースのデザインに合わせたレースの手袋だ。総レース作りの日傘の下で流れる髪は上品なアッシュブロンド。だが、何より雄弁なのは瞳であるだろう。大粒の双眸はハシバミのようで、何者も抗い難い魅力を湛えているのだった。
 「ごきげんよう、皆様」
 視線に気付いて微笑んでみせれば、彼女に見惚れていた通行人は我に返ったように慌てて立ち去って行く。ヘーゼルは特に気を悪くした様子もなくゆっくりと目的の店に向かった。
 「いらっしゃいませ、ヘーゼルさん」
 ドアベルを鳴らすと、レジカウンターの向こうから壮年の店主が微笑みかけて来た。
 「おや、今日は日傘ですか」
 「ええ。雨の心配はなさそうですし」
 「六月の天気予報は当たりませんからねえ。お帰りの時までもってくれるといいのですが」
 くすみ始めた空を窓越しに見やって店主は苦笑する。ヘーゼルは印象的な瞳を静かに微笑の形に眇めた。
 「そうですわね。こちらにお邪魔するとついつい長居してしまいますもの」
 店内には紅茶と木の香りが心地よくたゆたっている。
 目当てのリーフは最初から決まっているが、ついつい目移りしてしまう。珈琲を豆で売る店は見かけても紅茶を量り売りしてくれる所はそう多くない。この店はヘーゼルを含めた紅茶党にとっては貴重な場所だった。
 「雨、降りそうね」
 「やだな。傘持って来なかったわ」
 若い女性客の静かなお喋りを聞きながら、スローテンポのワルツを踊るように陳列棚の間を行き来する。
 「帰り、気をつけなよ? そんな白い服着てたら危ないかも」
 「え、どうして?」
 「知らないのー? 一昨日の朝もニュースでやってたのに」
 ――雨の日にはね。花嫁殺しの通り魔が出るんだって。
 冗談とも本気とも取れぬその言葉にヘーゼルはふと足を止めた。
 「新婚で、白い服を着た女の人ばっかり狙われるみたい。六月に入った途端にそんな噂が立ったんだって」
 「ならあたしは大丈夫だ。結婚の予定なんかないもん」
 「分からないよ、どう見られるか。案外人妻に見えるかも」
 「まさかぁ」
 くすくすと笑い合う女たちの声を背中に聞きながらリーフを選び、会計を済ませる。その後で美しいおもてがわずかに曇った。
 いつの間にか雨が降り出していた。
 (どうしましょう。傘が……)
 小雨程度だ。しかし鈍色の空は低く、重い。繊細な総レースの日傘では雨避けにはならないだろう。
 「失礼。お困りですか?」
 不意に背後から柔らかな男声が聞こえてきた。
 「よろしければ僕の傘に……」
 柔らかなプラチナブロンド。長い睫毛で縁取られたアイスブルーの瞳。高い鼻、シャープなフェイスライン。背の高い体からほのかに漂う薔薇の香気。
 「あら……あの時の」
 「覚えていてくださいましたか」
 ダニエル・リッケンバッカー。以前顔を合わせたことがある。貴族然とした衣裳も、芸術品のように整った容貌も相変わらずだ。
 「僕も今から帰るところです。よろしければ一緒に」
 「ご親切に。よろしいんですの?」
 「ええ。この雨です、せっかくのお召物が汚れるといけない」
 ヘーゼルの白いワンピースを見つめ、ダニエルは美しく微笑した。
 しとりしとりと、ぬるい雨が降っている。


 気が付くといつも雨だった。今日もいつの間にか雨が降り出していた。六月は雨の季節だ。
 しとしとと降る霧雨は全身に絡みつくかのよう。
 ひたひたと、雨の向こうから何かが近付いてくるかのよう。
 (ああ――)
 ひたり、ひたり、ひたり。
 恍惚の表情でレイピアを握り締め、美しい殺人者はうっとりと眼を閉じる。
 花嫁を探そう、美しい花嫁を。そして薔薇を贈ろう。真っ赤な、真っ赤な薔薇を。
 ひたり、ひたり、ひたり、ひたり……。
 姿の見えない“何か”が緩慢に殺人鬼を侵食していく。


 顔にこそ出さないものの、京秋は少々戸惑っていた。
 「ボクのおごりですー、お近付きのしるしにどーぞ。あ、こういうのはお嫌い?」
 一方、トオルはにこにことしている。その手には銀幕広場のワゴンで買ったホットドッグが二つ。
 「腹が減っては戦ができぬ、って言うでしょ。食べられる時に食べておかないと」
 「それはそうだが」
 「食わず嫌いは良くありませんって」
 「そういうわけではないが、こういった食べ物には不慣れなものでね」
 「なら慣れましょ。現代社会に馴染みましょ。ね?」
 わざとらしく首を傾けてにっこり微笑んでみせるトオルに京秋は浅く苦笑した。
 「せっかくの好意だ。ありがたくいただくことにしよう」
 二つ並んだ傘の下、二人の探偵は揃ってホットドッグを口にする。現代っ子のトオルはともかく、古めかしいモノクルを着けて上品なベストとスラックスを纏った京秋には些かミスマッチな光景であった。
 「やってて良かったですわー、雨だから休みかなーって思ったんですけど。ここのワゴンのね、ほんっと美味しいんですよ。お勧めはテリヤキソース」
 「それはともかく、歩きながら食べるのかい?」
 「ジャンクフードはオギョーギ悪くてなんぼです。紳士さんにはハードル高いですかねー?」
 「そんなことはない。仕事柄、食事を即席で済ませねばならないことも多いからね」
 「ははー、探偵っぽい。さっすがー」
 「君も探偵なのだろう? それもムービースターの」
 「ボクはただのエキストラですってばー」
 「成程。どうやら私の知己には捻くれ者が多いようだ」
 「よく言うじゃないですかー。他人は自分を写す鏡だって」
 「一理ある。では私も君を写す鏡というわけだね」
 トオルは「あはは」と笑ってみせただけだった。
 クラシカルな探偵と詐欺師探偵。奇妙な取り合わせではあるだろう。急遽コンビを組むことになった二人は先日から市内のあちこちを回って聞き込みを続けている。陰鬱な小雨に降り込められた街を歩き回っての調査は愉快な作業ではなかった。
 グレーの傘の下、灰色の街並を眺めながら京秋の頭脳が静かに回転を始める。
 (しかし、全体像がどうもはっきりしない。噂の域を出ない……とでもいうのだろうか)
 流れるような所作で顎に手を当て、意識を思索へと沈ませていく。
 (新婚の、それも白い服を身に着けた若い女性ばかりを狙った事件が起こっているのは確かなようだが……事件の数に比して報道が少ない。本当に通り魔殺人が起こっているのなら新聞の片隅くらいには載っても良さそうなものだ)
 発覚しない事件は事件ではない。発覚しない限りは報道されることもない。
 まるで噂だけがひとり歩きしているような。そんな印象を覚えるのだ。
 (仮に、事件が発覚していないだけなのだとしたら。つまり――事件の痕跡が隠蔽されるか、何らかの理由によって事件そのものが存在しないことになっているのだとしたら。スターやハザードの影響を考えれば有り得ない線ではないだろうね)
 「ここ、銀幕市でしょー? スターとかハザードとか、そんなのも視野には入れてるんですけどね」
 という声に意識を浮上させると、半歩前を行くトオルがくるくると傘を回していた。
 「どーも、ね。数が多すぎて。うら若き女性ばかりを狙う殺人鬼を主人公にした映画なんてのもいくらでもありますし? それに出自がどうあれ、多くのスターは善良な市民として暮らしているわけでして」
 例えばボクみたいに、と自分の鼻先を人差し指で指しながらトオルは笑ってみせた。
 「それはおかしい。君はただのエキストラではなかったのかね?」
 「っとと、それは言いっこなしですってば。まーそれはともかく、色々映画をチェックしてるんですけどねー、これがなかなか。メジャーなものから自主制作映画まで網羅しようと思ったら絞り込めませんわ」
 「ふむ。私も調べてはいるが、それらしいハザードが発生したという情報は見当たらないのだよ。スターの線も同じだ」
 「ですよね。スターが人を殺して回ってるなら対策課から依頼が出てる筈ですしねー」
 ――雨の日にはね。花嫁殺しの通り魔が出るんだって。
 発端はそんな噂だった。実際にそれらしき事件は起こっているが、対策課の守備範囲かどうかは未だ分からない。そこで気味悪がった複数の市民が二人の探偵に解決を依頼したのだった。
 「こういう時は現場百遍、ですか」
 「賛成だ」
 歩き回ってもこれといった手がかりは得られず、通り魔が出たという路地に行ってみることにした。
 一昨日も新たな被害者が出たばかりだが、犯人像は未だはっきりしない。女を虜にしてしまう美男子ではないか、いや、幸せを妬む同性の犯行ではないか……。そんな噂ばかりがさわさわと波紋のように広がっている。凶器の形状が特殊であることも憶測に輪をかけているようだった。
 「凶器、何だと思いますー? ナイフや包丁なんかよりずーっと細長い刃物なんじゃないかって話ですけど」
 犯行現場のひとつと言われている路地に入り込んでトオルは地面の検分を始めた。両側を建物に挟まれているせいでだいぶ暗いが、血痕らしきものは見当たらない。
 「私もそこは気になっていた。極端に細長い刃物など限られている」
 「スターならそういう剣か何か持ってるかも知れませんねー、レイピアみたいな。ボク、何人か心当たりありますよ」
 「可能性として考慮することは必要だが、先入観を持つのは危険だ。スターの犯行であることを前提に考えるのでは見込み捜査と変わらない」
 「分かってますってー。ボクも探偵ですから、多分」
 「多分、か」
 へらりと笑うトオルを横目で見つつ京秋も丹念に検分を行った。しかしこれといった痕跡は見つからない。それに、犯行は日暮れ時から深夜にかけての時間帯だという。
 大通りから二本も三本も外れた路地は暗く、物寂しい。車のクラクションも間延びして聞こえる。良くも悪くも喧騒からは隔絶された場所だった。
 京秋は内心で首を捻った。
 (暗くなる刻限に女性が一人でこのような場所を訪れるとは思い難い。やはり噂は噂ということなのか?)
 だが一昨日被害者が出たことは間違いない。京秋は新聞で、トオルはニュース番組でそれを知った。
 ふたりの傘の上には相変わらずしとしとと雨が降り注いでいる。のっぺりとした建物に四角く切り取られた空はやはり沈鬱だ。
 (……どうも愉快ではないね)
 鬱陶しい小雨と一緒に、正体の見えない噂にまとわりつかれているような気がする。
 「どうだろう、仲村君。一昨日の現場に行ってみないかね」
 「まだ警察がいるんじゃないですかねー。入れてもらえないかも」
 「対策課から依頼されたとでも言えば通してくれるのではないだろうか」
 「うーわー。嘘つきは泥棒の始まりですよ?」
 「詐欺に比べれば可愛いものだよ」
 「あはは、何のことでしょ」
 軽口の応酬を重ねながら路地を出た二人だったが、京秋が不意に足を止めた。
 きょとんとして彼の視線を追ったトオルも幾度か目を瞬かせる。
 「……どうしますー、京秋さん」
 「少し様子を見てから声をかけてみよう」
 「賛成」
 柔らかなプラチナブロンド。長い睫毛で縁取られたアイスブルーの瞳。高い鼻、シャープなフェイスライン。貴族然としたいでたちに、腰にはレイピア。
 そんな美しい男が、白いワンピースに身を包んだ美女と相合傘で歩いていた。


 しとりしとりと雨が降り続けている。空は低く、重いままだ。この薄暗さでは太陽の位置も判然としないが、時刻は既に黄昏へと近付きつつあるようだった。
 「何か?」
 視線に気付いたのか、ヘーゼルは柔らかく首をかしげてダニエルを見上げた。
 「失礼。貴女が相変わらず美しいものですから」
 「まあ、お上手ですこと」
 「嘘をつくようでは紳士とは言えません。あのお店で会ったのも何かの縁でしょうか」
 「そうですわね。良かったですわ、雨傘を持って来なくて」
 「光栄です」
 紅茶好きという共通点もあり、以前に一度会ったことのある二人はすぐに打ち解けた。長身で豊満なヘーゼルと、同じく長身で均整の取れた体つきのダニエル。そんな二人が同じ傘の下で微笑を交わす様子はまさに映画のワンシーンのようで、行き交う通行人はうっとりと溜息をつくのだった。
 ダニエルも美しいが、ヘーゼルも美しい。彼女は何を着ても美しいのだろうが、白い服がよく似合っているとダニエルは思う。先日のウエディングドレスなどはまさにその典型だった。
 こうして傍で見ていると愛する女を思い出す。
 「――失敬。少しいいかね」
 そこへ新たな面子が加わった。
 ダニエルは静かに立ち止まって振り返った。三十代も半ばを過ぎたとおぼしき落ち着いた男と、二十歳そこそこの黒縁眼鏡の男が立っている。年上の男は京秋、若い方は仲村トオルと名乗った。
 二人とも穏やかな物腰を見せていたが、油断のならない目をしていることをダニエルはすぐに見て取った。
 「僕に何か? それとも、お目当てはこちらの淑女だろうか」
 「んー。どっちも、ですかね。ボクらね、こう見えても探偵なんですわー。ある事件の調査をしてて、ちょっと気になることがありまして」
 「物騒な通り魔の噂は知っているかね? 若い女性ばかりが立て続けに狙われているのだが――」
 京秋は不思議な色合いの目をゆっくりとヘーゼルからダニエルに移した。
 「そろそろ日も暮れる。暗くなっては物騒だ。彼女の護衛を兼ねて同行させていただきたいのだが、どうだろう?」
 「護衛を“兼ねて”とは」
 ヘーゼルは静かに口を開き、緩く首を傾けた。「他にも何か目的がありますの?」
 探偵二人は答えない。だが、彼らがちらと視線を交わしたのは見てとれた。
 ダニエルは美しい瞳をすっと細めて微笑した。
 「僕は構わない。彼女が了承してくれるならば、だが」
 「ええ。わたくしも構わなくてよ」
 美男子と美女は絵画のような微笑を交わした。
 「――それでは参りましょうか、探偵さん」
 優雅な、しかしどこか意味深なヘーゼルの微笑に促されて一行は歩き出した。

 
 花嫁は美しい。雨に濡れる花嫁はもっと美しい。
 小雨、特に霧雨が良い。柔らかな髪の毛が雨の雫をまとってしっとり濡れる様といったら。胸に咲いた薔薇が緩慢に滲みゆく様といったら!
 通り魔は今日も迷い出る。
 花嫁を求め、雨の中に――
 不可視の糸で操られるマリオネットのように――


 「しかし嫌になりますよねー、この雨」
 「そうですわね。わたくしったら、こんな季節に雨傘ではなく日傘を持って来てしまいましたのよ」
 「分かります、分かります。昼間は結構晴れてましたもんねー?」
 「ええ、すっかり油断してしまって。ですけど、雨傘を忘れたおかげで皆様と会えたんですもの」
 「あはは。お世辞でも照れそうですー」
 ヘーゼルと無難に雑談を交わしつつ、トオルの注意はダニエルへと注がれていた。京秋は黙っているが、同じくダニエルに神経を向けている。
 空は相変わらずの雨模様だ。上がるでもなく、強まるでもなく。気の滅入りそうな小雨がしとしとと降り続けている。そのせいだろうか、通りを行き交う通行人の数もまばらだ。車だけが灰色の雨水を蹴立てながら走り去っていく。
 雨の日の黄昏前。平凡な街並。しかし、その一角を進む三つの傘の下だけは静かな緊張感に満ちている。
 「土砂降りではないだけましといったところだろうかね。随分と“中途半端”な降り方だが」
 浅い自嘲を含みながら京秋はダニエルに顔を向ける。
 「何せ雨脚が強くては服が汚れてしまう。――特に白は汚れが目立つからね」
 「ああ。せっかくの美しい白が汚れてはいけない」
 ダニエルは傍らのヘーゼルを見つめながら応じた。緩やかに微笑するそのおもてはどこまでも美しく、優雅だ。
 この笑みで女を油断させ、籠絡するのだろうか。
 トオルも京秋もダニエルのことは知っている。しかし映画の中での設定だけでは疑う理由にはならない。
 だが、あまりに一致しすぎていることも確かだ。
 (それに)
 トオルは黒縁眼鏡の奥からちらとヘーゼルの横顔をうかがった。
 (この女の人も映画の中では殺人鬼だったんだよねー。何の偶然なんだろ)
 花嫁殺し、ダニエル・リッケンバッカー。
 美しき殺人鬼、ヘーゼル・ハンフリー。
 二人の殺人者と二人の探偵。奇妙な取り合わせではあるだろう。
 「雨の季節って、どうしても汚れが気になってしまうでしょう? 今日などは晴れていたものですから、久々に白い服が着られると思いましたのに」
 「女の人は大変ですよねー。その点野郎は楽でいいや」
 「仲村君、その言い方は失礼だ。リッケンバッカー君のような男性もいるのだからね」
 「っとと、そうでした。スイマセン」
 「構わない」
 ダニエルは相変わらず静かな微笑を返す。「確かに服は汚れるが、僕は雨の日は嫌いではないんだ」
 「……へえ。そうなんですかー」
 ほんの刹那の間を置き、トオルはへらりと笑った。
 しとりしとりと、雨が降り続けている。穏やかな物腰の下に全てを隠し、静かな攻防が続く。
 「どうして雨の日が好きなんですかー? 何かユーウツになりません?」
 「雨の日には雨の日なりの良さがある。雨に濡れる花もまた優雅なものだよ」
 「花とは、例えば薔薇だろうか? 君の体からは薔薇の香りがするようだが」
 「その通りだ。雨の中の薔薇はとても美しい。病的なほどに」
 怜悧な瞳を三日月の形に細め、ダニエルはうっとりと呟く。「霧雨の中で滲む赤は格別だ」
 「同感ですわ。濡れた薔薇にはえも言われぬ美しさがありますもの」
 「ミス・ハンフリー。貴女の今日の装いにも赤い薔薇がお似合いになる筈ですよ」
 「ははー、白い服に赤い薔薇。確かに綺麗でしょうね。ボクには縁のない世界だけど」
 「白い服……か。そう言われると花嫁衣裳を連想してしまうね。六月は花嫁の季節でもあるそうだよ」
 ――京秋が動いた。
 「ジューンブライドですねー。でもー、ウエディングドレスに赤い薔薇ってなくないですか? ふつーは白い花ですよ」
 緩やかな笑みを崩さぬままトオルも追随する。
 「それはそうだ。白は花嫁の象徴であるからね」
 「だが、純白のドレスに赤い薔薇という組み合わせは最高に美しいものだ」
 ダニエルの言葉に俄かに熱がこもったようだった。ヘーゼルのワンピースへと向けられた双眸がしっとりと濡れている。まるで微熱でも帯びているかのように。
 確信を持つには早い。だが、探偵たちの胸の内では疑いが徐々に肥大している。
 (もうひと押ししてみよっかな?)
 トオルが口を開きかけた時、「探偵さん」と割って入る声があった。
 「あ、はい?」
 目をぱちぱちとさせて顔を向ければ、ハシバミの瞳で微笑むヘーゼルの姿がある。
 「この世界に不案内なわたくしをお許しになって。先程おっしゃったジューンブライドって何ですの? こちらの世界の伝承かしら」
 「六月に結婚すると幸せになれるって言われてるんですよ。家庭の神様がジュノーっていうんですって。ま、業界のでっち上げだっていう説が大半ですけどねー」
 「あら……ですけど、素敵なお話じゃなくて? わたくし、六月に結婚した花嫁に嫉妬してしまいそうですわ」
 「嘘ー? 嫉妬に焦がされるような人には見えませんよー」
 「分かりませんわよ。女は誰でも人には見せない一面を持っていますもの」
 意味ありげに微笑み、ヘーゼルは美しい声で言葉を継ぐ。「そうですわ。六月の花嫁を狙っているのかしら、あの通り魔さんは」
 「……通り魔、とは?」
 「先程、紅茶のお店で噂を耳に挟みましたの。若い女性のお喋りをたまたま聞いたのですけれど……」
 ――雨の日にはね。花嫁殺しの通り魔が出るんだって。
 女性たちの口調を真似てヘーゼルはそう言った。
 「へえぇ、花嫁殺し」
 「物騒な話だ」
 トオルは飄々とした口調を変えなかったし、京秋も眉ひとつ動かさなかった。
 「新婚の若い女性……それも白い服を身に着けた女性ばかりが狙われるのですって」
 「あらら、それは大変だ。じゃあ危ないんじゃないですかー? 雨の日、白い服って条件揃ってますし」
 「そうですわね、わたくしも花嫁になれれば良かったのですけれど。六月に入ると同時に花嫁殺しの噂が囁かれ始めたそうですわ。六月に式を挙げた女性を狙っているのかも知れませんわね」
 「六月に入ると同時に?」
 と口を挟んだのはダニエルだった。「六月になってすぐそんな噂が……ですか?」
 「ええ。詳しいことは分からないのですけれど、お店の女性客はそう話していましたわ」
 「……そうなのですか」
 「何か疑問でも?」
 考え込むような表情を見せたダニエルに京秋が尋ねる。ダニエルは一拍置いてから口を開いた。
 「僕が知っている話とは少し異なるようだ」
 「へー。どういうふうに違うんですー?」
 「ねえ皆様。殺人鬼さんはご存じないのかしらね」
 トオルのさりげない追及は美しい殺人鬼によって阻まれた。
 貴婦人と呼ぶにふさわしいしぐさで口許に手を当て、ヘーゼルはしとやかに、ミステリアスに微笑む。
 「綺麗な花には棘がある……と申しますでしょう? 花嫁が美しいだけの存在だと思ったら大間違いですのにね」
 レースに覆われた繊手で指輪がちかりと光を放った。
 「花嫁も女も同じですわ。人には見せない顔のひとつやふたつ、誰でも持っているもの。美しさに惑わされて迂闊に手を伸ばしては怪我をするかも知れませんことよ。――そうではなくて?」
 魅惑的な瞳を優雅に細め、うっとりするような声で謎めいた言葉を紡ぎ、それでもヘーゼルは美しく微笑んでいる。
 美しき殺人鬼、ヘーゼル・ハンフリー。
 ――まさか。
 だが、彼女なら被害女性に警戒心を与えることなく夜歩きに誘い出せるかも知れない。
 「おや、恐ろしい。しかし真理かも知れません」
 美しい殺人鬼の傍らでは美しい花嫁殺しが微笑んでいる。
 眩暈がしそうだ。平凡な街角に、現実離れした殺人鬼が二人。あまりに倒錯している。だが、目の前の二人はこんなにも美しい。
 対するはモノクルの紳士と、現代風の若い男。片やクラシカルな私立探偵、片や掴みどころのない詐欺師探偵。贅沢な配役だ。
 しとりしとりと降る雨の中、四人はいつしか足を止めていた。
 「――騙していたわけではないのだが」
 やがて口を開いたのは京秋だった。トオルは彼から一歩離れて顎を引いた。京秋の足許の影が一瞬うごめいたように見えたからだ。
 「私たちも花嫁殺しの噂を調べていてね」
 ゆっくりと、最終幕が上がっていく。
 クライマックスが今、始まる。
 「そんでね、ボクら、“殺人鬼”とか“花嫁殺し”のキーワードに一致する映画を色々見たんですけどー」
 「一昨日も被害者が出たのは知っているね。女性が極端に細長い刃物で殺された」
 「そうそう。レイピアか何かで刺されたみたいに」
 「被害者の着衣は白。胸に薔薇が咲いたようであったそうだよ」
 「雨の中の薔薇ってすんごい綺麗なんでしょー?」
 ダニエルは答えない。ヘーゼルも答えない。二人の殺人鬼はただただ穏やかに微笑んでいる。
 「あくまで推測だ。むしろ憶測といったほうが良いだろう。しかし……探偵は疑うのが仕事でね。だからはっきり見せてくれないだろうか」
 「そ。――犯人じゃないっていう証拠を」
 物腰柔らかに糾弾をつきつけ、探偵二人もあくまで穏やかに微笑した。


 しとりしとりと、雨が降り続けている。
 ダニエルはわずかに眉尻を下げ、形の良い頤に手を当てた。
 「困ったな。疑われているということなのだろうか」
 「有り体に言えばその通りだ」
 「や、気を悪くしないでくださいねー。キーワードに一致する人たちを片っ端から当たらないと始まらないんで」
 「困ったな。僕が殺人者だなんて、そんなことあるわけがないのに」
 ダニエルの苦笑はやはり美しいし、口で言うほど困っているようにも見えなかった。
 「しかし答えないわけにはいかない。どうしましょうか、ミス・ハンフリー」
 「ありのままをおっしゃればよろしいのではなくて?」
 「君にもありのままを話して欲しいものだね」
 「まあ……どういう意味ですの、探偵さん。もしやわたくしも疑われているのかしら?」
 「共犯の線も否定できないってゆーか、キーワードに一致する人たちを片っ端から当たらないと始まらないんでー」
 オウムのように繰り返し、トオルはまたへらりと笑った。
 霧雨は相変わらず沈鬱だ。二人の探偵と二人の殺人鬼の間には重たい雨と湿気だけがある。
 「では、事件が起こった正確な日時を教えてくれないだろうか? 一昨日も被害者が出たと先程言っていたが」
 「そうですわね。アリバイがあれば……と申しましても、事件が起こったのは夜遅くでしたかしら。独り身のわたくしがそのような刻限のアリバイを証明するのは至難の業ですわ」
 「僕も同じだ。家の中で一人で就寝していた、では証明にはならないのだろう?」
 「そもそも、その時間帯に確固たるアリバイがあるほうがよほど不自然ではなくて?」
 美男と美女は交互に、滑らかに言葉を繰り出す。息の合ったダンスパートナーのように。
 探偵組もただ黙っているわけではない。無難な相槌の裏で頭脳を目まぐるしく回転させている。どこからどうやって突き崩すべきか、論理という名のパズルを組み立てながら綿密なシミュレーションを繰り返している。
 「それに」
 やがてダニエルはうっすらと微笑んだ。「僕の花嫁はフェリシアだけだ。彼女以外の花嫁を求めることなどある筈がない」
 探偵たちは答えなかった。目の前の美しい男は真実を語っている。二人ともそう直感していた。
 「ま、それはそれとしてー。不思議だと思いません?」
 くるりと傘を回してトオルが口火を切った。
 「犯人はどーやって新婚の女の人を見分けてるんですかね? 新婚かどうかなんてぱっと見だけじゃわかんないでしょ普通。既婚の人がみーんな結婚指輪をしてるとも限らないしー」
 「私もそこは疑問に思っていてね。考えられる線は大雑把にいえば二つだ。一つ目は、何らかの理由で被害者が新婚であることを知っていたか……例えば被害者と面識があったり、犯人が結婚式場に勤めていたりといった場合だね。この場合は通り魔ではなく、通り魔を装った計画的殺人と呼ばねばならないが。二つ目は」
 京秋は息継ぎをするように言葉を切り、モノクルの奥の目を軽く眇めた。
 「――犯人に新婚の女性を見抜く能力が備わっているか、だ。映画の中で花嫁を殺して回っていたムービースターなどが当てはまる可能性がある。例えばそう、君のような」
 心地良いバリトンはあくまで静かで、深く、圧倒的だった。
 教誨師のような声の前でダニエルは軽く肩をすくめる。
 「僕がいつ人殺しを?」
 「……どういう意味だね?」
 「映画の中で花嫁を殺して回ったと言うが、僕がいつ花嫁を殺したんだ?」
 凍てついた冬の湖のような色の瞳をゆっくりと細め、ダニエルは首をかしげた。
 「僕はフェリシアを探しているだけだ。妙な言いがかりはやめてくれないか」
 困惑した表情に嘘はない。
 ああ――ならば、この男は狂っているのか。
 トオルはがりがりと襟足を掻いた。
 「成程ねー。それがアナタにとっての真実であるわけだ」
 「ああ、その通りだ」
 「でもねー、ボクら、事実も知っときたいんですよ」
 黒い瞳をきょときょととさせ、愛想笑いを浮かべる。「だってホラ、真実と事実って必ずしもイコールじゃないじゃないですかー?」
 暮れなずむ街にしとしとと雨が降り続けている。
 緩く間延びしたエンジン音を残して車が走り去っていく。

 ぱしゃん――と誰かが雨水を蹴立てた。 
 
 「――仲村君」
 「え、あ、ハイ?」
 京秋の声が不意に厳しくなったのでトオルは目をぱちぱちとさせた。
 ぴしゃん、ぱしゃん……ばしゃん。
 不規則な水音。
 誰かが雨の中を走っている。複数の足音が入り組んだ路地へと消えていく。
 京秋はさっと身を翻して走り出し、トオルも慌てて続いた。ダニエルとヘーゼルも後を追う。
 「いや!」
 若い女の悲鳴。荒い息遣い。乱れ、もつれ合う足音。
 建物の狭間、薄闇が凝る路地で、今まさに若い女が男に襲われようとしている。
 女の服は白。男の手には――レイピア!
 「ち――」
 剣を引き抜いた京秋が瞬きのうちに肉薄する。
 その瞬間、ひゅ、と風切り音を立てて京秋の頬を熱が走り抜けた。
 「うーわー」
 間延びした、しかし感嘆を含んだトオルの声。
 ――京秋の後ろからレイピアを繰り出したダニエルが殺人者の得物を弾き飛ばしていた。
 「……お見事、リッケンバッカー君」
 「光栄だ」
 微笑みながらレイピアを収めるダニエルはやはり美しかった。


 「しっかりなさって……もう大丈夫でしてよ。お怪我はありませんこと?」
 路地に尻もちをついた女を助け起こすのはヘーゼルだ。白い服を身に着けた女は呆然としているようだったが、ヘーゼルの微笑に少し気を落ち着けたのか、こくりと肯いて礼を述べた。
 だが、ダニエルによってレイピアを叩き落とされた男は膝をついたまま恍惚の表情を浮かべている。
 「ああ……本物だ。あんた、ダニエルだろう。花嫁殺しのダニエル・リッケンバッカー」 
 ダニエルは不快そうに眉根を寄せた。
 「僕、あんたに近付きたくて。スターに頼んでレイピアも手に入れて、みっちり練習したんだ。花嫁の胸に薔薇を咲かせるために。だって六月は花嫁の季節だろう。あの噂、あんたなんだろう。そうだろうダニエル・リッケンバッカー。そうなんだろう――」
 口角に白く泡を溜め、陶酔した男は早口で喋り続けた。


 しとりしとりと降っていた雨は上がり、ねずみ色の雲の隙間からちらちらと夕焼けが覗いていた。
 結局、模倣犯ということで片がつきそうだった。元々ファンだったダニエルが実体化したことを人伝に聞いて凶行へと駆り立てられたのだそうだ。
 だが、どうして新婚の女ばかりを狙うことができたのかはこの場では分からずじまいだった。
 「ごめんなさいごめんなさい、ほんっとごめんなさい! 疑ってすみませんでした」
 「誠に申し訳ない。どう詫びたら良いのか……」
 「そんなに気にしないでほしい。疑うのも探偵の仕事なのだろう?」
 謝罪するトオルと京秋を穏やかに制してダニエルは微笑んだ。
 「僕のほうこそ済まなかった。咄嗟のこととはいえ、顔に傷を負わせてしまった」
 「どうということはない。文字通りのかすり傷だ」
 レイピアが掠めた頬の傷をなぞり、京秋はゆっくりとかぶりを振った。皮膚が切れた程度の傷にすぎない。
 「薔薇を贈るんだ。花嫁の胸に。真っ赤な薔薇を」
 「はいはーい、お話なら警察でしてくださいねー。刑事さんは何でも聞いてくれますからねー」
 「丁重に送って差し上げよう」
 探偵二人は虚ろに笑い続ける男の両脇を取り、ダニエルとヘーゼルにもう一度詫びてから立ち去った。
 暗い夕焼けに染まる街に美しい男と美しい女が残された。
 「とんだ騒ぎでしたわね」
 ヘーゼルは眉を顰め、そっと頬に手を当てて嘆息した。「疑いが晴れて良かったですわ」
 「ええ、まったく。巻き込んでしまったようで申し訳ない」
 「とんでもありません。傘に入れていただけてとても助かりましたわ。雨も上がりましたし、此処で失礼したいのですけれども……その前にひとつよろしいかしら」
 「何なりと」
 「わたくしが噂のことをお話しした時、疑問を口にされていましたわね。通り魔の噂が囁かれ始めたのは本当に六月に入ってすぐなのか……と。あれはどういう意味でしたの?」
 魅力的に微笑むハシバミの瞳はダニエルの心を覗き込んでいるかのよう。
 ダニエルもまたうっすらと微笑した。
 「大したことではありません。ただ、実際の事件よりも先に噂が生まれていたようなので不自然だと感じたまでのこと」
 「まあ……そうでしたの」
 ヘーゼルは大きな目を更に大きくしたが、表情ほど驚いているわけではなさそうだった。
 「ええ。本当に通り魔が出るようになったのは六月も半ばに差し掛かった頃と記憶しています。探偵さんたちはそこまでご存じなかったようですが」
 「そうでしたの。確かにおかしな話ですわね」
 「そうでしょう? 不自然なことです」
 「ええ、本当に」
 赤黒い黄昏の中、美男と美女は密やかに微笑みを交わす。
 探偵たちが辿り着けなかった情報をなぜダニエルが知り得たのか。聡明な筈のヘーゼルがなぜその点に不審を抱かないのか。そもそも噂の火種は何であったのか――。
 すべての疑問は些細で、野暮だ。なぜなら目の前の二人は圧倒的に美しい。
 「それにしても、模倣犯……ですか。その解釈は正しいようで正しくないのかも知れません。言うなれば噂から生まれた殺人鬼――」
 ダニエルは体の前で腕を折り曲げ、貴婦人に対するように恭しく一礼した。
 「あの男性は噂という狂気に飲まれました。どうぞ貴女も狂気に飲まれませんよう」
 「ええ。貴方も薔薇の棘にはお気をつけあそばせ」 
 「ご忠告、感謝いたします。それでは」
 「ごきげんよう」
 優雅な微笑だけを残し合い、二人の殺人鬼は別々の方向へと歩み去った。
 後には生乾きの街だけが残された。濡れたコンクリートに暗い夕焼けを映した街並は奇妙に不吉な色合いに染まっていた。


 (了)

クリエイターコメントご指名ありがとうございました、宮本ぽちでございます。
ゲリラの割には濃いめのノベルをお届けいたします。

個性的な二人の探偵と美しい二人の殺人鬼、雨の街並、和やかな雑談に見せかけた攻防。そんなことをイメージしながら書いたつもりです。
オファー文を少し弄りまして、ヘーゼル様にも少しだけ疑いが向くように仕立ててみました。
似非ミステリの雰囲気が出ているでしょうか…。

火のない所に煙は立たないと言いますが、さて“本物の”犯人は誰だったのでしょう。
真相は藪の中、ということで。
公開日時2009-07-08(水) 19:10
感想メールはこちらから